My Backbone 本と映画と音楽と 〜「小清水 志織」こと Yくんのリクエストに応えて〜 


  『道徳教育への遡行』(岡村遼司 著。1990<平成2>年 初版。萌文書林 刊)


※本文引用 (太字はHP作成者による)


私はこのレポオトを繰り返し読んだ。繰り返し読んで、若い看護者(HP作成者注:岡村先生が授業を担当していた看護学校の女子学生で、

「このレポオト」とは看護実習での体験にもとづいて彼女が書いたもの)のことを思い、青年患者のことを考えさせられた。これからという時に、

大きな事故に遭遇し大切な片足を失ってしまう。そのことに彼女は同情を抱いたに違いない。勿論、自分が看護者であることを失念していた

わけではないだろう。しかし、それ以上に、当たり前のこととして、身体健康があってこその人生なのだという考えが、彼女を支配していたことは

確かであろう。その気持ちが同情となり憐愍(同注:れんびん。憐憫とも)となったのであろう。彼女が間違っている、ということを言うのではない。

誰でも考えるような彼女の思考を、一瞬にして変えた青年の「恐くない、恐くない、頑張れよ」という、自らへの励ましの言葉(同注:重症を負った

青年が、手術の前につぶやいていた言葉。「かわいそうに、片足をなくして生きていくなんて私には耐えられない」と憐れんでいた女子学生は

その言葉を聴いた途端、「身のすくむ思い」がして、自分の方がよほど惨めだと自分の愚かさを痛感させられた)が持っていた力の方に、私は

引きつけられたのであった。言葉に尽くせない不安や恐怖に襲われたであろう青年の勇気は、彼一人のものである以上に、生命というものが

内在させている生きる勇気というものではなかっただろうか。投げやりにもならず、絶望に陥ることもなく、「頑張れよ」と自らを奮い立たせた

その力は、人間の根底に存在する生きるための勇気というものではなかったろうか。


宗教―信仰というのは、何ものかに対する信仰の内容の問題を指すのではなく、人間的体験の一つの性格―人間の態度のことを言うのである。

自分は信仰を持たない、と言う人がいる。それは、信仰の対象と内容を指して、信仰がないと言うのであろう。信仰とは、私の一つの態度であり体験

を意味する。良心の超越的性格
(同注:カントの「自分の中にある道徳律」など)を認めることは、それ自体で一つの宗教であり、一つの信仰であると

言っていけない理由はない。
だから、良心のこの超越性という実相(同注:実際のありさま。事情。仏教では「世界の真実でありのままの姿」の意味)を

認められない人をして、フランクル(同注:『夜と霧』の著者で、実存主義心理学の人。このコーナーでも取り上げている)は、非宗教的な人であるとする

のである。非宗教的な人とは、人間の責任が何に由来するのかを問わない人(同注:人は自分の中にある良心や道徳律に対して、果たさないではいら

れない責務や任務を持つ、ということ)、人間・個人が生きる責任の由来がある)のことなのである。(中略)生命から問われた者としてではなく、自らが

生命に問う者として存在する人
(同注:強制収容所で生き抜いた人達は、「自分の生命や人生が、『今・この<実存的な>自分自身』に何を求めている

のか=生きる意味を問い続けることで、絶望せずに正しさや思いやりを第一に持つ人であり続けた人達」だった。逆に死んでいった人達は、「自分の

生命や人生に、もう何も期待できない思ってしまい、絶望して利己主義や孤立に自分から落ち込んでしまった人達」だった)を非宗教的な人と名づける

ことができるかも知れない。



彼(同注:ルカ福音書に登場するパリサイ人<びと>)が行う立派なことも、結局は、神から評価を得るためであったのであり、評価されることによって

自己の存在の価値を示したかったのである。あろうことか、他人(同注:人から疎んじられ軽蔑されている税金取り。神の前で、ただ胸をうって、「神様、

どうぞこの罪人のわたしをお赦しください」と言うことしかできなかった)を引き合いに出してまで自らを大きく見せようとしたのである。それが正しいから

という理由で何かをするのではなく、そのことによって他人から評価を得て、自らの大きさを自慢するのである。パリサイ人の誤りは、ここにあった

のであろう。
(中略)私達にも、どれほどパリサイ人が住み着いていることか。他人の評価を期待し、善行を数え上げて自慢し、他人に対して優越感を感じる、

そのような態度が、私達には全くないとは言い切れない…。


※このホームページの「脚下照顧」のコーナーから



1日オフの月曜日。このホームページのコーナー「 My Backbone 本と映画と音楽と」を更新するために、本棚から『知的好奇心』(波多野

誼余夫<ぎよお>・稲垣佳世子 著。1973<昭和48>年 初版。中公新書 刊)を取り出して、ページに折り目があったり傍線や書き込み

を付した箇所を読み始めたら…ほぼ1日、「沼」に入ってしまった。その沼とは、教員人生でずっと肝に銘じてきた「態度価値という価値基準

(ものさし)が、人間観や人生観(どんな人間、どんな生き方に価値を見出すか)においてとても大切。たとえば、80もの力を持つ人が100点

満点を取るよりも、30しか力を持たない人が60点を取ることの方が価値が高い」という考え方を、誰の言葉(どの本)から学んだのかという沼。

『夜と霧』(フランクル 著。1956<昭和31>年 初版。池田香代子 新訳。みすず書房 刊) →『道徳教育への遡行』(岡村遼司 著。1990

<平成2>年 初版。萌文書林 刊)→『人並みという幻想』(岡村遼司 著。2006<平成18>年 初版。駒草出版 刊)と読み進めて、最後に

岡村遼司先生(大学で一番影響を受けた、教育学の先生)の授業ノートを読み切った。どんな教師になろうとしてたのか、どんな大人になろうと

してたのか…22歳(まだまだ「青22歳」などと言ってたっけ)前後の自分に再会できた…再会してしまった。 2024.6.10


このHPの「 Hobbys 」のコーナーにある「 My Backbone 」(今も私の「背骨」になっている、ものの見方・考え方

のルーツ的な書籍や映画、音楽などの紹介)の更新を頑張った。今回は『道徳教育への遡行(そこう)』(岡村

遼司 著。1990<平成2>年 初版。萌文書林 刊)について、紹介のための本文引用やこの「脚下照顧」で

岡村先生(友人で教育学部の鈴木智<今も映画やTVドラマのの脚本家、演出家として活躍中>君から誘わ

れて、先生の授業を「ゲリラ受講」<私は文学部で他学部生>。その後、教員資格を得るための教育心理学

や教育実習前のオリエンテーションなどの授業を正規で受講。自分勝手に「私淑」している唯一人の先生。

ウィキペディアには、「早稲田大学教育学部卒、同専任講師、助教授、教授、教育総合学術員教授、2014年

退職。教育問題を文化史・文化論の視点から考察することに関心をもつ」と書かれている)のことを取り上げた

文章を公開。この書籍は、私が大学3年生当時(1985年度)に受講していた岡村先生の授業のエッセンスが

詰まっているもので、孔子やプラトン、パスカルやフランクル(ドイツの実存主義心理学者)の思想を、「道徳

そのものは教えることができない。それは実際に生きて行う態度や体験によってはじめて得られる価値だから」

という考え方の「補助線」として学ぶ(試験はレポートが中心)もの。引用したのは、「態度価値の意義」や

「無宗教者の信仰の在り方」、「正しさからでなく評価を得られるから行われるパリサイ人の善行の罪深さ」など

について書かれた岡村先生の文章。この「 My Backbone 」は、前任校で出会った元生徒のY君(ペンネーム

は小清水志織)のリクエストでスタート(定年退職後の4月から)できた企画。改めてY君に感謝します。 

2024.6.18